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1、1日語綜合教程第五冊日語綜合教程第五冊目錄目錄第1課海の中に母がいる海の中に母がいる第2課田中正造田中正造第3課日常の思想日常の思想第4課庭第5課木の葉の魚木の葉の魚第6課をせ車輪動物カミしヘをしヘのかをせ車輪動物カミしヘをしヘのか第7課紅山桉紅山桉第8課蘭第9課『的』の文化の文化第10課屋根の上のサヮン屋根の上のサヮン第11課こ島見けンとかぅこ島見けンとかぅ第12課歲時記歲時記第一課第一課海の中に母がいる海の中に母がいる山好きの血が父
2、方から流れているとすると、海好きは間違いなく母から伝わっている。終戦間もなく、しのばしのばずのいけずのいけ不忍池のほとりを通りかかると、池の端に、母がしゃがみ込んで池の面をじっと見ている。聲をかけると、母は照れたような顔で立ち上がり「ちょっと海が見たくなって」と言って笑った。當(dāng)時、東大のそばに住んでいたので、買い物のついでに不忍池で休んでいたのだろうが、そのときの母の言葉が妙に忘れられない。小學(xué)六年の夏、母の故郷のかごしまかごしま鹿児島
3、の辺鄙な漁村でひと月暮らしたことがある。母の父は背の高い、こわい人で、そこでずっと醫(yī)者をしていた。家から五十メートルほどで海に出る。桜島や開聞岳の見える美しいはまべだった、母が海を見たいと言ったのはその故郷のはまべだった、母が海を見たいと言ったのはその故郷の浜辺のことを考えていたのかもしれない。今なら二時間もかからない鹿児島は、その頃は夜行や連絡(luò)船で二日かかる遠(yuǎn)い國だった。望郷の思いに駆けられても當(dāng)然だったような気がする。海好きといって
4、も、心ゆくまで海と親しんだのはその夏だけで、あとは學(xué)校から海水浴にゆく程度だった。おそらく海と切りはなされた狀態(tài)がかえって海への憧れを掻き立てたのだろう。大學(xué)を出る年、何としても海に関係する職業(yè)につきたいと思い、日本郵船に入社できないか聞きに行った。対応に出た人事課長は「うちも、ほかの會社と同じですよ。文學(xué)部出身では、どうもね」と気の毒がってくれた。船會社だから、全員が船に乗れるものと勘違いしていたわけだ。それでも、船に乗って、海を思い
5、のたけ味わいたいと言う気持ちは、いっこうに衰えなかった。幸いフランスにゆくことになり、留學(xué)生は船に乗るように、という指示があった。マルセイユまで三十三日の船旅――考えただけでも嬉しさで気が遠(yuǎn)くなりそうだった。しかし仲間の留學(xué)生たちは、何でそんな無駄な旅をさせるのか、と不満顔だった。私はひとり海の喜びを満喫するため、四等船室を選んだ。ここは季節(jié)労働者用の船室で、留學(xué)生が近寄らないばかりでなく、船底なので、海に近く、丸窓の外は青い波がすれす
6、れにうねってる。海が荒れると、船員が鉄の覆いで丸窓をふさぎにくる。ベッドは鉄パイプの二段棚にカンバスを張っただけ。飾りなど何もなく、牢獄さながらだ。しかし文明の居心地よさはつねに、大自然との直接の接觸遮斷しゃだんする。たとえば灼熱の紅海では、船底は四十度を越え、甲板でも燃える暑さだ。もちろん一、二等船室は優(yōu)雅に冷房されているが、それでは、コンラッドの描くこの熱帯の海という荒々しい野獣のようなものの実體に觸れることはできない。限りなく強(qiáng)烈
7、な、素肌ならすぐに火傷を起こす太陽の下でしか、紅海の目くるめく壯大さは味わえないのである。私は朝、甲板で激しい海の風(fēng)に吹かれながら飲む大カップのコーヒーに満足した。中國人、マレー人、インドネシア人、ウェトナム人たちの喧噪のなかで、甲板に寢そべってヘミングウェイをよむのが、たまらなく嬉しかった。舳先に立って風(fēng)を受けていると、まるで大航海時代の冒険者になったような気がした。東シナ海の冷酷な青い波、くらげの浮かぶボルネオ海の白緑色のねっとりし
8、た波、インド洋の壯麗な落日の下で黃金色に砕けていた波、地中海の凄味を帯びた青黒い波――いずれも刻々に私のたましい魂を奪ってやまな3彼は、かたわらの袋から、死んだ魚や立ち枯れ稲など、不気味なものを取り出しては、『足尾銅山の流す鉱毒のため、渡良瀬川の流域では、これ、このとおり魚は死に、作物は枯れてしまう。政府は、直ちに銅山に命じて鉱石を掘ることをやめさせ、銅山の経営者は、農(nóng)民たちの被害を償うべきであります?!护冉肖证韦坤盲?。この男の名は田中
9、正造。正義と人道のために一身を捧げつくして、後に、『明治の義人』と呼ばれるようになった人物である。関東地方の地図を開くと、栃木県の西北部、有名な中禪寺湖の近くに、足尾という銅山の在るのが分かる。江戸時代にも鉱石が掘り出されでいたが、一八七七年(明治十年)にある実業(yè)者がこの銅山を買い取ってからは、鉱夫の數(shù)は三千人、年間四千百トン余りもの銅を産出するようになり、それとともに、鉱毒の害があらわになって出たのである。雨が降ると、捨てた鉱石の滓か
10、ら毒が染み出て、近くを流れる渡良瀬川は青白く濁り、何萬匹もの魚が白い腹を見せて浮き上がる、その近くの畑に植えた作物は、根から腐って枯れてしまう。そして、一八八七年(明治二十年)ごろからは、渡良瀬川沿岸一帯の村々の田畑が不作となり、農(nóng)民たちは貧苦の底に沈むようになったのだった。一八四一年(天保十二年)十一月三日、今の栃木県佐野市に生まれた田中正造は、元の名を兼三郎といったが、二十八歳の時、『人間にとって一番大切なのは、正しい生きることだ。
11、人生五十年とすれば、わたしは、もうその半ばを過ぎている。せめてこれから先は、正義を貫いていきたいものだ。』と考えて、自ら『正造』と改名した。そして、晝間學(xué)校へ通えない青少年のために夜學(xué)會を開いたり、『栃木新聞』という新聞を出して、民衆(zhòng)の権利を出張し、郷土の人々の役に立つ記事を載せたりした。しかし、正造が正しいと信じることは、なかなか世の中へ広まっていかない。そこで、正造は、一八八〇年(明治二十三年)には衆(zhòng)議院議員になって、自分の考えを?qū)g
12、際の政治の上に生かそうとしていたのだった。そういう正造だから、今、足尾銅山の鉱毒に苦しむ農(nóng)民たちを見て、黙っていることはできない。彼は、農(nóng)民の代表として、『山から銅を採って、日本の國を豊かにするのは、確かに大切なことでありましょう。だが、そのために多くの農(nóng)民を犠牲にすることは、絶対に許されませぬ?!护仍Vえ、鉱毒問題と真剣に取り組み始めたのである。正造が、國會で火のような弁舌をふるって忠告したにもかかわらず、明治政府は、『群馬栃木の両県の
13、田畑で作物が枯れたりしているのは事実だが、足尾銅山の鉱毒が原因かどうかは分からない?!护妊预盲?、問題を取り上げようとしなかった。しかし、正造は、確かな証拠を持っていたのである。と言うのは、すでに前の年、正造と農(nóng)民たちは、農(nóng)科大學(xué)(今の東京大學(xué)農(nóng)學(xué)部)の古在由直助教授に頼んで、足尾銅山の鉱石の滓と被害地の土水の調(diào)査をしてもらっていた。その結(jié)果が、正造たちの予期していたとおりだったのである。足尾銅山から流れ出る水は、銅、鉄分及び硫酸をおびた
14、だしく含んでおり、動植物が死んだり枯れたりするのはそのせいであるというのだ。そこで正造は、翌年五月に開かれた第三議會で再び演壇に立ち、動かぬ証拠を示して言葉鋭く政府に迫った??茖W(xué)的な調(diào)査の結(jié)果を見せられては、政府も足尾銅山の鉱毒を認(rèn)めないわけにはいかない。政府は、銅山を経営する會社に注意を促し、會社はようやく粉鉱採集機(jī)というものを備え付けて、鉱石の細(xì)かな滓が散らばらないよう処置したのである?!氦猡Υ笳煞颉¥长欷?、田中のとっさまのおかげで
15、す?!晦r(nóng)民たちはそう言って喜び、稲も麥も豊かに実ってくれるものと期待したのであった。だが、農(nóng)民たちのその期待は失望におわった。粉鉱採集機(jī)もさっぱり効き目がなく、二年たっても、三年たっても、渡良瀬川の魚の死ぬのはやまないし、作物もはかばかしくは実らない。いや、それどころか、鉱毒の害はますますひどくなっていくのだ。そして、鉱山拡大のため山の木を切り過ぎたことも祟って、一八九六年(明治二十九年)の秋、大雨のため渡良瀬川の堤防が切れると、鉱毒で
16、汚れた水は、たちたち沿岸八十八の村々を襲う、目も當(dāng)てられぬ有様となったのである。正造はまたしても議會の演壇に立ち、『足尾銅山の採鉱を停止すること、それ以外に村々を救う道はありませぬ?!护冉肖证韦坤盲?。正造の言うとおり採鉱をやめれば、確かに鉱害はなくなるだろう。しかし、銅の産出量が少なくなれば、その分だけ日本の國力も弱くなる。そこで、政府は銅山側(cè)に命令して、二十か所に鉱毒沈殿地と鉱毒濾過池を造らせたのである。銅山側(cè)は、『これで、二度と鉱害
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